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山岡鉄舟 明治になって静岡へ

1868年7月23日  

江戸が東京と改称された七月十七日から二日後の七月十九日に、慶喜は水戸を出発、銚子から榎本武揚の指揮する軍艦蟠龍にて二十三日駿河清水港に到着し、直ちに静岡の宝台院に入った。

             8月

 

榎本艦隊旗下の咸臨丸の遺体を 清水次郎長が葬る。それに対し、鉄舟は、「壮士の墓」という文字を揮毫した。※壮士の墓

             8月15日

 

 

 

 慶喜が静岡に移転した翌月の八月九日、徳川宗家を継いだ田安家のまだ五歳の徳川家達(いえさと)は江戸を出発し、十五日に駿府に着いた。(400万石から70万石に)
領地は駿府一円と遠江国・陸奥国と通告された。新たなる静岡藩をつくったわけで、いろいろ難しい問題があった。

江戸からの大量移住による衣食住問題、70万石に減らされた禄高分配の問題など

1869年9月

 

   
このような状態下の静岡藩で鉄舟は、明治元年(1868)に勝海舟と共に幹事役となり、明治二年(1869)九月に権大参事・藩政補翼という要職へ九名と共に任じられ、それぞれ役割を分担したのである
山岡鉄舟は1869年明治2年 静岡藩の権大参事(副知事相当)として井宮町に移り住んだ。
場所は、静岡駅から北へ 梅が島方面へ走り、井宮郵便局近く村越酒店の信号を左に曲がり、左を見ながら次の四つ角から2件目の魚仲の前に碑が立っている。(平成22年4月再建された)

しかし、本来の場所はその4つ角を左に折れた「株 赤石」のところだ。

ここは、江戸時代上流から運ばれた材木の検査 税金を取る「十分の一御蔵」という所で、後に、安倍軽便鉄道の井宮駅となった場所。大正13年には、鉄舟の住居跡の記念碑が建てられた

1871年 明治4年 廃藩置県によって徳川家達が、多くの旧藩主同様に東京に集められ、家禄を与えられ静岡を去る機会に、鉄舟も他の藩士等と共に東京に戻った。
静岡には3年半ほどの滞在だが、大きな影響を与えた。

※壮士の墓

明治元年8月品川湾を脱出し函館に向かっていた徳川幕府の榎本艦隊旗下の咸臨丸は台風にあい、清水港に漂着した。

そこで、、官軍の富士、武蔵、飛龍三艦の襲撃を受けて、多数の乗組員が戦死した。(9/18)

その死体が海に浮き沈みしているのを、誰ひとり顧みる者がいなかった。漁民も困り果てていたが、官軍がその処理をするのを拒んでいた。

清水の任侠人 次郎長こと山本長五郎が密かに収拾して、向島の松の根元に埋葬し、墓をたてて、その菩提を弔った。

この行為が駿府藩の耳に入り、出頭詰問を受けた。が次郎長は、
「死ねば仏だ。仏に官軍も徳川もない。仏を埋葬するのが悪いというなら、次郎長はどんな罪でも喜んでお受けいたします。」と答えたと

このいきさつを聞いた山岡鉄舟はいたく感心し、「壮士の墓」という文字を揮毫した。

次郎長は鉄舟(17歳下)に心酔し、鉄舟がなくなるまで親交が続いた。
鉄舟の勧めもあり、富士の開墾など社会事業に励み74歳で大往生