清水次郎長生家

2017.7.8 次郎長生家が リニューアルオープンしました。

耐震性の弱かった生家は、NPO法人「次郎長生家を活(い)かすまちづくりの会」は、地域の観光資源として往時の姿の再現を目指して、このほど完成した。 

 

以前の次郎長生家

清水次郎長(1820~1893年)の生家で、次郎長が産湯で使った井戸などが当時のまま保存されています。

所在地

〒424-0945   静岡市   清水区美濃輪町4-16 

電話番号

054-353-5000 


清水次郎長改心後年表

慶応4年(1868年)3月~7月

駿府藩が成立。それに伴い駿府町奉行が廃止され、東征大総督府が駿府町差配役に任命した伏(ふせやじょすいから、街道警護役に任命され,侠客稼業から足を洗う。

慶応4年(1868年)7月

徳川慶喜は慶応4年(1868)7月19日に水戸を出発、銚子から旧幕府軍艦蟠竜艦に乗って7月23日に清水港上陸、陸路東海道を通ってその日の夕方宝台院に入りました。

護衛には松岡萬の率いる精鋭隊隊士50人が付きました。また、新門辰五郎も同行し、宝台院近くの常光寺に居を構えました。慶喜は、明治2年(1869)9月28日に謹慎が解かれるまで宝台院で過ごす。

当時、明治新政府が警戒する中、旧幕臣に会うことを避けていた慶喜ですが、勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟、新門辰五郎等は常にお見舞いに参上していたそうです。

慶応4年 (1868年)49歳 9月18日咸臨丸事件

この8月の半ば頃、旧幕府軍海軍副総裁の榎本武揚は、7隻の軍艦を要する艦隊を率いて、江戸から駿府行きを拒んだ武士たちとともに、品川沖から北海道の方へ脱走するも、房総沖で台風にあい、咸臨丸は帆柱が折れて修復のために清水港へ入港します。

 

明治元年9月18日、徳川家臣たちをのせた咸臨丸を、官軍の富士丸、飛竜丸、武蔵丸が襲撃し、皆殺しにし、遺体を海い放り投げた。

 

また、そのあとすぐに、"賊軍である咸臨丸の乗組員の遺体には触れるな、埋葬するな、この掟を破ったものは反逆者として厳罰に処する"というような内容の高札が立ちました。

この御触れと厳しい見張りによって、海に漂う遺体を誰も埋葬できず、酷い死臭と景観になっていました

次郎長は、お上に逆らう形で、夜中の見張りのいない時に子分を動かして遺体を回収し、供養します。

しかし9月の末頃、すぐに駿府藩役所より出頭命令が来ます。

 

死ねば仏だ。仏に官軍も徳川もない。仏を埋葬するのが悪いというなら、次郎長はどんな罪でも喜んでお受けいたします。」と答えたと

 

 

このいきさつを聞いた山岡鉄舟は痛く感心し、「壮士の墓」という文字を揮毫した。

 

場所

〒424-0944 静岡県静岡市清水区築地町1−7

明治7年(1874年)55歳~明治16年(1883年)           64歳富士裾野の開墾

 山岡鉄舟の薦めで次郎長は富士裾野(現富士市大淵町)の開墾に着手する。県令に助成金と静岡監獄の囚人(模範囚)のしようの許可を得た次郎長は、現場では囚人の腰縄を外し、家族との面会を自由にするなど大胆な活用をした。自ら汗を流し、大政や天田五郎ものちに監督作業にあたった。開墾は17年間におよび、耕した土地は76ヘクタールに達した。事業は途中で打ち切りになっているが、これは資金続かなかったことと、払い下げが難行して資金回収のめどが立たなかったからである。

 次郎長町

富士市大渕4250-5 白髭神社の境内に

「侠客次郎長開墾記念碑」とかかれた碑が立っている

昭和43年には記念碑がたてられ、説明が書かれています。

この地が次郎長開墾をもとに発展したか 感謝の意があらわされている

明治8年(1875年)56歳 清水港整備

元々清水の港は巴川の河口港でした。

次郎長は、清水港の発展には茶の販路の拡大が必要だと考えます。

そのためには、より大きな蒸気船が入港でき、大きく貿易できる必要があると廻船問屋の経営者たちを口説いて周り、静隆社(1881年)をお興して清水ー横浜間の初の定期航路開設に尽力しました。

清水港は外に開かれた港となり、静岡のお茶はアメリカへも輸出されて、日本一のお茶の輸出港なります。

 

龍馬・お龍さんが鹿児島へのいわゆる新婚旅行で乗った薩摩藩蒸気船「三邦丸」みくにまるが、明治10年代に次郎長が設立に関与した静隆社の持ち船になって清水から横浜へ輸出用のお茶を運ぶのにつかわれた.(石田孝さまより)

 

 

明治9年(1876年)、57歳 <英語塾の開設>

茶の海外輸出のこともあり、肌で英語の必要性を感じた次郎長は、これからの若者は英語を知らなきゃダメだ!

と、近所の若者を集めて、講師に静岡学問所の若手講師を招いて英語塾をはじめます。

明徳館 旧幕臣の新井幹が清水本町(成就院の中と推測される)に開いた私塾の部屋の一角を借りて開いたといわれている。明徳館は後に同市松井町に移され清水尋常小学校となり、清水小学校の前身となった。

この英語塾の様子を再現した展示が、次郎長が晩年経営した船宿を再現した施設「末廣」にあります。

 

明治12年(1879年) 60歳 相良油田

山岡鉄舟の義弟、石岡周造が遠州相良の油田を開発。 鉄舟の依頼により次郎長は、石坂を助けて相良株式会社の株券を募集して、石油開発に協力した。

 

現在でも この場所の近くにくみ上げられる油井があり、

イベントでは油を取り出す様子が見学できる。

大変質の良い油なので、この油を使いそのままで二輪自動車の運転を披露している。

2016.4.3原油くみ上げイベントの様子

明治17年 (1884年)65歳

65歳の年には博徒一斉刈り込みにより、静岡井之宮監獄に収監されてしまい、懲役七年・罰金四百円の刑をくらうのですが、関口隆吉

(初代静岡県知事)などの尽力により、翌年、特赦放免となる。

 

明治19年(1886年)68歳  <船宿「末廣」の開業>

大きくなった清水港には軍艦の出入りも多く、軍人との交流もあった。

榎本武揚、広瀬武夫 小笠原長生、大山巌等々多数の政府要人とも付き合いがあった。

 

小笠原長生が次郎長について語った話が雑誌に載ったそうです

その話を載せたブログはこちら


若かりし頃の小笠原長生写真が飾られておりました

徳川慶喜は明治元年から30年まで静岡に滞在、清水港へ足を運び、次郎長は慶喜の護衛をした


明治19年(1886年) <済衆医院の開設>

東京大学医学部特別科を卒業した 植木重敏と、次郎長は横浜から土佐に向かう船上で知り合い、植木と同じ土佐出身の渡辺良三とともに清水に招き、済衆医院を清水町に開設します。

 

 

明治19年(1886年)東海道線工事請け負う

工部省長 奈良原繁から東海道線の工事を請け負う。

この時ともに工事に協力した米屋の山西屋は褒美として駅弁販売の権利をもらった。

これが「東海軒」始まりとなる

 

明治20年(1887年)69歳

4月17日 興津の清見寺で咸臨丸戦死者の記念碑の序幕式が行われる

碑文「食人之食者死人之事」は、榎本武揚によるものです

ちなみに お焼香順位は 2番目が榎本武揚 10番目が次郎長でした。

 

どうして清見寺にあるのでしょうか?いづれ調べてみます

こちらをクリック

碑文の意味と福沢諭吉の説

明治25年(1892年)73歳

タイで活躍した郷土の英雄山田長政 顕彰碑の建立の資金集めのために駿府城内で大相撲の興業を催します。

大相撲の他にも、当目の岩吉を連れて上京し、当時の外務大臣になっていた榎本武揚に会い、銅像建立の趣旨を説明して金一封の寄贈をしてもらっています。

 

自分の子供がなかった次郎長は、晩年は近所の子供たちを集めて相撲を取らせたり、菓子を与えるなど好々爺ぶりを発揮して

「港のおじいちゃん」と親しまれた。船宿末広は3代目お蝶に任せきりであった。

 

明治26年(1893年) 74歳で逝く

6月12日自宅末広にて生涯を終える。

15日梅蔭寺に葬られる会葬者数千人に達する大きな葬儀であった。墓碑は「侠客次郎長之墓」は榎本武揚の書である

 

山岡鉄舟が生きていれば 鉄舟の字によるでしょうとの話でした

山岡鉄舟から次郎長にあてた「ひらがなの手紙」にいくらの値がつくでしょうか 120万円でした

鑑定団 より