1866 1月 薩長同盟(龍馬の2大偉業)

1866 6月~

第2次長州征伐 (14代将軍家茂 大阪城にて8/29病死)

1866 12月

慶喜が15代将軍になる

 1867 10月

 土佐藩が慶喜に大政奉還建白書を提出した(龍馬の2大偉業)
     10月

大政奉還  慶喜は、朝廷に対していわゆる「大政奉還」をした。というが、政権を朝廷に奉帰

する建白書(岩下哲典著)であって、慶喜自身政権担当意欲が大いに感じられる。

と書いている。この時点ではすべての政権を渡すつもりはない。 どうにもならなくなって、「政権帰一」をだれもが想定しえない自分自身から言い出 したのである。すなわち自ら死地に活路を見出そうとした(岩下哲典著)

1867

12/9

 大政復古の大号令発令

12月9日、討幕派は慶喜の狙い通りにさせないように動きます。討幕派が主導して薩摩、尾張、福井、土佐、広島の5つの藩の兵が京都御所の門を守るなか、天皇が王政復古の大号令を発したのです。号令の内容は慶喜の政権返上と将軍職辞任を認めること、江戸幕府を廃止すること、西洋文明を進んで取り入れる文明開化政策を採用することなどでした。

慶喜のもくろみは外れ、完全に政治に参加できなくなった。天皇を中心として[総裁]、[議定]、[参与]の三職を設置すると宣言した

 

1868

1/3

鳥羽・伏見の戦い

大政奉還によって政権を天皇に返上した徳川慶喜が領地や官位まで返還を求められた為、旧幕府側特に会津・桑名藩が怒り鳥羽伏見にて兵を上げた出来事です。


新政府の西郷隆盛、大久保利通、公家の岩倉具視は完全に幕府を潰したいと考えていた。薩摩藩の藩士ら命じては、1867年10月ごろから江戸で放火や強盗を行うなどして旧幕府勢を挑発します。その挑発にのってしまった江戸警備にあたっていた庄内藩士らが12月25日に薩摩藩邸を焼き討ちにする事件を起すのですが、これをきっかけとして、ついに大阪城にいた旧幕府勢も京都に向かって兵を上げるのでした。

幕府軍15000人 新政府5000人

 

錦の御旗

「錦の御旗」は天皇の軍隊すなわち官軍であることを示す旗です。

岩倉具視は、10月には大久保利通とともに、錦の御旗を2旗依頼した。デザインは国学者玉松操。密かに準備していたもの。

1/5

錦の御旗が新政府軍の手になり、鳥羽伏見の戦場で翻った。これにより、新政府軍が官軍になり、幕府軍が賊軍になった。

  私見 すごい代物ですね。 テレビドラマの黄門様の印籠ですね。これを見たら「はは~」と言って平伏する。

   錦の御旗を見たら、戦意をなくし、賊軍になることを恐れたのは、武士だけでなく慶喜が

   朝敵になることに恐れをなし、逃げ帰るのですから・・・
   その錦の御旗が、岩倉によって作られたものだとは・・・

1/6

 慶喜は、「これより出陣する」と告げたその日の夜
開陽丸で 松平容保らをつれて密かに大阪城を脱出して 江戸に帰ってしまう。

  私見 知らされず残された武士たちは、どうなるの?どんな気持ちになるのか?やっぱりどう考えても,慶喜は勝手すぎる。上に立つ人ではないね。

   二心様です。


  
林真理子の「正室」慶喜の正妻 美賀子について書かれた本の中では、
   慶喜が二条城いる時点で、フランスのロッシュがナポレオンの密書として、討幕派との勝 敗  がつかない時は、フランスが必ず幕府側を援助し、

   勝利したあかつきには薩摩をよこせ、と
   大阪に入った慶喜のもとに、「イギリスのパークスが、西郷に武器を提供するが、勝ったあかつきには神戸港をくれ。」と言っているとロッシュ
からの 耳打ちがあった。

    それでは、フランスもイギリスも日本を自分のものにしたいだけなどだ。すんでのところで自分は国を売るところだ。しかし、もう激を飛ばして
 戦うことを宣言した。
    戦いをすれば、国を売ることになる・・・・
    「あの夜、わしにできることは逃げることだけであった。主だったものを達を連れてな」
    と書いている。

 

  イギリス人アーネスト佐藤の役割 bY NHKからヒントブログリンク

1868

1/7

慶喜は、小栗忠順をはじめとする交戦派を抑え、「朝廷の恭順を主張」

2月

勝海舟(45)に事態収拾を一任して 慶喜は上野の寛永寺大慈院において謹慎する

 

 江戸総攻撃を成し、徳川慶喜を死刑に処することを強硬に主張したのは、薩摩藩の西郷隆盛と大久保利通らでした。慶喜の死をもって、幕末動乱に終止符を打つ考えでした。
 有栖川大総督は、西郷隆盛を先頭に錦の御旗を掲げ、東海道を江戸に向かって進み、駿府に陣を構えました

1868

3/6

勝海舟は(45)、駿府にいる西郷隆盛に手紙を出し、慶喜の恭順の意と江戸の現状の手紙を渡そうと、高橋泥州に依頼するが、慶喜の警護をしていた泥州が江戸を離れられないとして、義弟の

山岡鉄舟を推薦する。

 

その間には、和宮(かつては婚約者の有栖川の宮)に徳川存続の嘆願書を出したり、天璋院(篤姫)から西郷への3mにも及ぶ手紙が託されたりした。、 西郷は泪するも、それにより動かされることはなかった。
鉄舟は、慶喜よりフランス製の10連発のピストルを渡された。(由比の望嶽亭に今も残っている)
そして、貧窮していた鉄舟は刀も持ちあわせておらず、親友関口隆吉(後の静岡県知事)より借りた。

 

勝海舟は、鉄舟に薩摩出身の益満休之助をつけて、2人で東海道を急いだ。
 殺気立った先兵の薩摩の官軍を、この薩摩弁の益満の方言でかわすことができ、、難なく三島まで来たが、ここで益満が足をいためた。
 一人で由比までくることができたが。

3/7

鉄舟は、先を急ぐあまり、夜のうちに由比の薩垂峠(さったとうげ)を越えようとするが
先鋒の官軍の攻撃を受け、すぐ近くの望嶽亭①に逃げ込む(下の写真を参照)

3/9

西郷と鉄舟の会談が、静岡伝馬町の桐油屋(とうゆや)松崎源兵衛方で行われる。

鉄舟 危機一髪

徳川慶喜からの願いを勝海舟の命で、駿府にいる西郷隆盛に会いに行く途中の

1868年3月7日 静岡県由比の薩垂峠(さったとうげ)にさしかかった時、官軍の先鋒の攻撃を受ける。

 

当時、宿屋「望嶽亭(ぼうがくてい)に逃げ込む

そこのご主人の機転により、家の中の蔵屋敷にかくまわれた。

そして、漁師の格好をして、隠し階段から降りて海に出て 船にて清水の次郎長のところに行く。

(次郎長はここでも世話になっていて、知り合いだった)

 

ここの詳しい検証は、静岡・鉄舟会の若杉昌敬さんのブログをどうぞ

 

藤屋 望嶽亭
静岡市清水区由比倉沢84-1
電話 054-375-3486 

現在の望嶽亭の様子

 

家の中に蔵屋敷がある

ここに鉄舟はかくまれた。

蔵屋敷の中に隠し階段があり、ここは普段茶室の置き床が置かれていた。

ここを降りていくと、海に出られる


階段を降りたところに、海に出られる引き戸がある。

徳川慶喜からわたされたフランス製の10連発の鉄砲

フランスにて鑑定済み

 

 

錦の御旗


 1868

3/8

 次郎長宅で、武士の着物、刀等身支度をして待つ

 1868

3/9

 次郎長&子分が、山岡鉄舟を守りながら、久能街道を通り駿府まで届ける。

西郷と鉄舟の会談が、静岡伝馬町の桐油屋(とうゆや)松崎源兵衛方で行われる。

 

鉄舟は、海舟の手紙を渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼む。この際、西郷から5つの条件を提示される。それは、  

  • 江戸城を明け渡す。
  • 城中の兵を向島に移す。
  • 兵器をすべて差し出す。
  • 軍艦をすべて引き渡す。
  • 将軍慶喜は備前藩にあずける。

というものであった。このうち最後の条件を鉄舟は拒んだ。西郷はこれは朝命であると凄んだ。

これに対し、鉄舟は、もし島津侯が同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論した。西郷はこの論理をもっともだとして認めた。この下準備があってこれによって江戸無血開城がすみやかにおこなわれる。

1868

3/13

3/14

江戸にて、西郷隆盛と勝海舟の会談が行われ、江戸城無血開城が実現しました。

西郷隆盛が180cm 山岡鉄舟が188cm 105kgまあ二人とも大男ですね。

 

~~西郷隆盛が勝海舟に語った鉄舟への評価~~

「命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない。本当に無我無視の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう」と ※1

山岡鉄舟 江戸開城に関する動画が 

全生庵のHPに載っていますので

こちらからどうぞ

西郷と鉄舟の会談が、静岡伝馬町の桐油屋(とうゆや)松崎源兵衛方で行われた。

現在の碑

※1

3月13日薩摩屋敷での会談は世間話などで、その夕方勝海舟は、江戸の町が一望できる港区愛宕山に誘い出したそうです。海舟はあちこち指さしながら、江戸の町を説明していたのですが、

「明後日は、これが焼け野原になってしまうのかもしれんな」と独り言のように言ったのです。

 

西郷は黙々として聞いていましたが、感慨無量のようであったと海舟は書いています。

海舟はさらに次のように言っています。

 

「その時だったよ、西郷がため息をついて『さすがに徳川公だけあって、えらい宝をお持ちだ』というから、どうしたと聞くといや山岡さんのことです、という。

どんな宝かと反問すると、『いや、あの人は、どうの、こうの、と言葉ではつくせぬが、何分にも腑の脱けた人でござる』と答えた。

どんなふうに腑の脱けているかと問うたら『いや命もいらぬ、名もいらぬ 金もいらぬ、といった始末に困る人ですが、但しあんな始末に困る人ならでは、(でなくては)お互い腹を開けて、ともに天下の大事を誓い合うわけにはまいりません。

 本当に無我無私なる忠胆なる人とは、山岡さん如き人でしょう』と言って、西郷は驚いておったよ。

高田明和さんの本から引用